shefuの備忘録

素人シェフの気まぐれブログ

<世界史>第二次世界大戦1 ~開戦まで~

こんにちは。

 

だいぶ間が空いてしまいましたが....

今日は第二次世界大戦に触れていきたいと思います!

 

20世紀初め、第一次世界大戦という

恐ろしく大規模な殺戮が繰り広げられ、

人々は恐れに震え、その後には多くのものを失った悲しみに明け暮れました。

 

それにも関わらず、

己の利益と空虚なプライドのために人類は同じ過ちを繰り返したのです。

 

第二次世界大戦概要

一般的には、

1939年9月の英独戦争から始まり、

独ソ戦太平洋戦争を経た後、

1945年ドイツと日本の降伏によって終了したと言われています。

 

第一次世界大戦ヨーロッパが戦地となり、

終始ヨーロッパで戦いが繰り広げられました。

 

それに対し第二次世界大戦では太平洋でも戦争が勃発し、

その火は世界中に及びました。

 

そして第一次世界大戦同様、

各国の思惑が入り乱れることで事態は複雑化しました。

戦争が長引くに連れて各国の事情と思惑に基づいて同盟が結ばれては廃棄され、

最終的に世界中を巻き込む大戦争へと発展していきました。

 

ベルサイユ体制

第二次世界大戦の背景はつまり、

"第一次世界大戦後に世界情勢がどのようになったか"

ということになります。

 

そしてそこにはベルサイユ体制という言葉が

最重要ワードとしてあげられるでしょう。

 

第一次世界大戦後、ベルサイユ条約が結ばれ、

敗戦国であるドイツが戦争の責任を負うような形となりました。

 

ドイツは領土と植民地を失い、

とんでもない額の賠償金を課され、

まさに首が回らない状況に立たされたのです。

 

1923年には賠償支払いの遅れを口実に

フランスがドイツ経済の中心部であったルール地方を占領。

ドイツ経済は崩壊し、ヒトラー率いるミュンヘン一揆が起こるなど

革命的危機に陥りました。

 

ドイツの経済復興には賠償問題を

どうにかしなければなりませんでしたが、

打つ手がない状態。

 

そんな中、第一次世界大戦で被害をほとんど受けなかった

アメリカが1924年ドーズ案をまとめました。

 

その内容はアメリカ資本によってドイツ経済を再建させ、賠償金を支払い、

フランスとイギリスはその支払い額を第一次世界大戦中に負った

アメリカへの借金返済に充てるというものです。

 

ドイツはもちろんのこと、フランスやイギリスにとっても

借金を返済し、経済を再建するのに他に手はありませんでした。

アメリカにとっては経済的ダメージがないだけでなく、

大国に恩を着せることができるまたとないチャンスです。

 

ドイツに対して強硬的態度を取っていたフランスは

この事態に政治的、経済的立場を弱くし、覇権を失うことなりました。

 

一方ヨーロッパ全体としては経済が安定し、

政治的緊張感が緩和されました。

 

ドイツとフランスはその国境を保証するロカルノ条約1924年に締結し、

翌年1925年にはドイツは国際連盟に加盟します。

さらに1928年には戦争の放棄を掲げた不戦条約が締結されました。

この年代は黄金の20年代と呼ばれ、世界に平和と繁栄をもたらしました。

 

しかしこの繁栄もつかの間、

1929年末にはニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけに世界恐慌に陥ります。

世界恐慌については割愛しますが、

間違いなく大戦の大きな要素であると言えます。

 

東アジアの情勢

第一次世界大戦戦勝国である日本とイタリアにとっても

ベルサイユ条約は満足のいく条件ではありませんでした。

 

戦争に大きく貢献したアメリカ、イギリス、フランスの

妥協点として制定されたため、

三国に有利な内容となっていたのです。

 

さらに世界恐慌の大打撃を受けた日本は政治的にも経済的にも危機に陥り、

1920年代に満州支配に踏み切ります。

 

1931年に軍部の策略で満州事変を起こし、

翌年1932年には満州国を樹立。

しかし国際連盟はこれを否認します。

日本も国際連盟加盟国でしたが、これを機に連盟を脱退します。

 

世界恐慌は世界中に及び、国際連盟としても

日本の満州侵攻に措置を取る余裕がありませんでした。

 

列強各国も民族運動や中国の反帝国主義運動の激化を恐れ、

何もできませんでした。

 

各国が事実上黙認したことで、日本軍および帝国主義勢力は一気に増長し、

軍国主義化が加速しました。

また動きはある勢力のトリガーともなりました...。

 

アドルフ・ヒトラー

第二次世界大戦第一次世界大戦

異なると言われている点があります。

 

まず第一次世界大戦勃発とかなだれ込んだ

という言葉が使われます。

 

サライェボ事件という突発的(厳密には黒手組によって計画されたものだが)な

事件が火種となり、周辺国で一気に宣戦布告からの戦争勃発という流れが起こります。

 

それに対し、

第二次世界大戦では引き起こされたという言葉が使われています。

 

意図的に、そして計画的に引き起こされたというのです。

そしてその意図的に、計画的に戦争を引き起こした人物が

何を隠そう、ヒトラーなのです。

 

1933年1月に成立したヒトラー政府は、

日本の満州侵略に対する国際連盟の無力さ見て、

同年10月に軍縮会議と国際連盟から脱退

 

他国との軍備平等権がないという理由での脱退で、

明らかにドイツが再軍備に乗り出したことを意味していました。

 

1935年3月には再軍備事実を隠せなくなり、

ドイツはベルサイユ条約の軍備制限条項を廃棄。

再軍備宣言しました。

 

同年5月に仏ソ相互援助条約が締結された際に、

これが西欧とドイツとの対立を深め戦争を引き起こしかねない

としたイギリスがドイツと妥協点を探り合い、

ドイツへの刺激を緩和させようとしました。

 

翌月6月にはイギリス・ドイツ海軍協定が成立。

ベルサイユ条約にある英:独の海軍力比を100:35に修正し、

ドイツの再軍備を事実上容認しました。

 

これはドイツへの刺激を最小限に抑えるための策略だったのですが、

ドイツの軍備の勢いはイギリスの予測を遥かに上回ってしまったのです。

 

ベニート・ムッソリーニ

1933年のドイツによる国際連盟脱退

イタリアにとっては不測の事態でした。

 

イタリアのファシズムはドイツのナチズムの模範としていたにも関わらず

ドイツから何の相談もなく、1933年6月に仮調印していたイギリス・ドイツ・フランス・イタリアの四国協定もこれによって消滅してしまったのです。

 

この四国協定にはイタリアの植民地獲得の承認も含まれていたため、

その事実も消滅してしまったのです。

 

なによりムッソリーニは予てから

地中海帝国建設を目論んでいました。

 

そんな中1935年1月のフランスとの会談で

エチオピア侵攻がフランスからは黙認されたと判断。

 

さらに同年4月のイギリス・フランス・イタリア首脳によるストレーザ会議でも、

イギリス・フランス勢は対ドイツに専念するため

イタリアには妥協的であると判断します。

 

そしてついに同年10月、

イタリアはエチオピア侵攻を開始します。

 

日本の満州侵略に次ぐ第二の武力行使でしたが、

国際連盟としてはこれを見過ごせずにイタリアを侵略国とし、

連盟規約第16条による経済制裁の措置を取ります。

 

ただしイギリス、フランスともに強く出ることはできず、

石油の禁輸には踏み切りませんでした。

 

1936年6月にはエチオピア皇帝がイギリスに亡命し、

イタリア軍は首都アディス・アベバを占領。

ムッソリーニローマ帝国の成立を宣言しました。

 

このことで国際連盟の信頼は地に落ち、

英仏とイタリア間の対立は激化します。

 

そしてドイツにとってはこの状況は

非常に都合がいいものでした。

 

1936年3月、仏ソ相互援助条約が批准されようとしている

という口実の下に

ラインラント非武装地帯(ベルギーとドイツの国境付近)に進駐。

ドイツの主権回復を図ると同時にベルサイユ条約事実上廃棄しました。

 

ファシズム

ここで一度

ファシズムが一体何なのかを整理しておきます。

 

簡単にいうと、

第一次世界大戦後の1920年頃から

第二次世界大戦終結した1945年までの間に出現した

強権的で独裁的な非民主的政治思想、体制のことです。

 

ヨーロッパを中心に広がった思想ですが、

特にファシズム政権を確立させ、

民主主義を掲げた連合国を敵として戦争を行った

イタリア、ドイツ、日本の三カ国がファシズム国家の典型とされました。

 

ファシズムの強硬的な考えが広まった原因は

第一次世界大戦後に経済的・政治的危機に陥ったこと、

そしてソ連に誕生した社会主義国の存在が各国の脅威となったことです。

 

イギリスやフランスといった列強国に比べ

近代国家の形成が2、3世紀遅れたイタリアとドイツは

植民地の取得競争に大幅に乗り遅れたため、

必然的にその経済的な基盤が強くありませんでした。

 

さらに第一次世界大戦によって大打撃を受け

失業やインフレの問題が後を絶たなくなり、

国家も国民も経済的窮地に立たされていました。

 

そこで排外主義的な思想が強くなり、

強力なリーダーシップによって経済成長というゴールを目指す

とした政治思想を持つようになりました。

これがファシズムです。

 

ファシズムと相反するのが

ロシアのレーニンの下で広まった社会主義ですが、

こちらも同じく資本主義の経済的危機から脱出するための策略です。

 

ただし社会主義

労働者(階級)を支援し、個人の労働力によって豊かになるという

自由主義な考え方です。

 

一党独裁による民族主義的な考え方を持つファシズムとは

相容れない概念でした。

 

ファシズムを掲げた国は社会主義の拡大を恐れ、

社会主義、反共産主義を掲げて

極端な国家主義を強調し出しました。

 

そして帝国主義(ファシズム)と社会主義

互いに敵対する概念の拡大を恐れて

牽制し合ったのです。

 

先ほどドイツと日本がイタリアと並ぶファシズムの典型的国家と述べましたが、

ドイツではナチズムと呼ばれ、また日本では天皇ファシズム(全体主義)と呼ばれ、

少しずつ違った概念を持っていました。

 

ファシズム運動

ファシズムについて整理したところで

社会主義国におけるファシズム運動についても触れたいと思います。

 

ヨーロッパの知識人たちは、

ファシズム社会主義間の争いに関して

早い段階で警鐘を鳴らしていました。

 

1926年には

アンリ・バルビュスとロマン・ロラン

国際反ファシズム委員会を結成し、

 

1929年には

アインシュタインらと

最初の反ファシズム大会をベルリンで開催。

 

1932年には

世界反戦大会がアムステルダムで開かれ、

戦争とファシズムに対する反対決議を採択しました。

 

ドイツでのナチズム優勢、

パリのファシスト暴動発生、

オーストリアのドルフース独裁成立など、

各国でファシズム勢力が拡大していくと、

ファシズム運動もさらに活発になっていきました。

 

1935年頃にはコミンテルンと呼ばれる世界大会が頻繁に開催され、

民主主義の拡大と戦争反対のための人民戦線戦術が採択されました。

 

スペインでは1936年の総選挙を前に

共和主義を掲げる政党と社会党共産党の間に

人民戦線協定が結ばれ、総選挙に勝利。

共和諸党から成る人民戦線政府が成立しました。

 

同じくフランスでも同時期に同じようなことが起きています。

 

スペイン内戦

スペインの人民戦線政府が成立して半年も経たない1936年7月、

フランコ将軍による人民戦線政府に対する反乱が勃発します。

 

ドイツやイタリアも直ちにこのフランコ将軍を支援し、

特にヒトラーはスペインに戦略的な拠点を得ようとしました。

 

人民戦線政府側もフランスに支援を依頼し、

フランスはこれを承諾しますが、

ファシズムとの戦争を恐れたイギリスがフランスに圧力をかけ、

共に不干渉という立場をとることにします。

 

同年9月にはドイツとイタリアも巻き込んで

不干渉委員会が結成されますが、

反乱軍側の勢力は増していく一方でした。

 

ソ連はこれを不当と判断し、

人民戦線政府への武器援助を開始。

国際的な反ファシズム運動も人民戦線政府を支持しました。

 

この対立が第二次世界大戦の基本的な構図であり、

この思想の違いと各国のエゴによる争いこそが

第二次世界大戦なのです。

 

イギリスの不干渉政策

ドイツ・イタリア側に宥和的だったため、

これを認めたヒトラーは1936年に駐英大使を任命。

英独同盟の実現に努めます。

 

ただその一方で、

同年8月には経済4か年計画という、要するに戦争準備に取り掛かります。

 

イタリアもエチオピア侵略スペイン内戦でのフランコ将軍支援によって

イギリス・フランス側との対立を強め、

ドイツに接近を試みました。

 

1936年11月の演説でムッソリーニ

ドイツとイタリアによる枢軸(政治の中心を意味する)を掲げました。

 

日中戦争

日本は満州国を成立させたものの、

そこから軍事的、経済的な進展は生まれず、

行き詰ってしまっていました。

 

そこで華北に目を付け、侵攻を試みますが、

中国共産党はこれに対し8・1宣言を発表し、

内戦なんかしている場合じゃない!今こそ一つになって日本を討とう!

と訴え、抗日救国運動は一気に拡大。

 

さらに蒋介石によって結束した

抗日民族統一戦線が結成され始めると、

日本軍部は華北の兵力を増強し、

1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まりました。

 

先ほど述べたように、

ヨーロッパ諸国はヨーロッパ諸国の緊迫した状況に手一杯で

日中戦争に構っている余裕はなく、

アメリカも不承認主義の原則に準え特に動きを見せませんでした。

 

ミュンヘン協定

1937年11月、

これまで戦争準備を進めてきたヒトラーがついに動きを見せます。

 

生存圏獲得のために

まずはチェコスロバキアオーストリアを倒そう

というもので、

これを政策として宣言したのです。

 

軍首脳は世界戦争勃発を恐れ反発しましたが、

1938年頭にヒトラーはこの軍首脳を更迭。自らが国防軍を統帥します。

 

同年2月にはオーストリア最後通牒を突きつけ、

3月にオーストリアを併合。

 

さらにヒトラーチェコスロバキアの併合に手を付け、

現在でいうチェコにあるズデーテン地方のドイツ人に自治運動を促した後、

同年9月12日にはニュルンベルク党大会武力行使による併合意思を表明。

 

この戦争危機を前にイギリスのチェンバレン首相

9月15日にヒトラーを自ら訪問。

ズデーテン・ドイツ人の議決権を認めた上で

フランスと共にチェコスロバキア政府に圧力をかけます。

 

さらに22日チェンバレン首相はヒトラーを再訪しますが、

ヒトラーは要求をさらに吊り上げ即時占領容認を要求。

28日を期限にドイツ軍の進撃を開始すると脅迫します。

 

しかしここでムッソリーニが介入。

9月29日と30日にミュンヘンで開催された

イギリス・フランス・ドイツ・イタリアの四国会談で、

ズデーテン地方をドイツに割譲するという内容の

ミュンヘン協定を成立させました。

 

チェンバレンミュンヘン協定の成立により戦争を免れたことを

我が時代の平和と呼び自賛しましたが、

他国を犠牲にしただけの非常に身勝手なものでした。

 

ヒトラーの暴走

ここからヒトラーの暴挙は加速していきます。

 

1939年3月14にはチェコスロバキア大統領であるハーハを脅迫し、

チェコスロバキアを解体の上、15日に占領します。

 

その翌日16日にはボヘミアモラビア保護領とし、

さらに21日、ポーランドには

現グタニスクであるダンツィヒの割譲を要求しました。

 

チェコスロバキアの解体には

政治的には民族的にも合理的な理由はなく、

それらを黙認したイギリス政府を世論は激しく非難しました。

 

3月31日にチェンバレンポーランド主権を保証する声明を出し、

ドイツを牽制します。

 

しかし4月3日、

ヒトラーは9月1日までにポーランド攻撃の準備を整えるよう、

軍に命令を出します。

 

イギリスが徴兵制を決定すると、

同月28日にヒトラー

独ポ不可侵条約(1934年締結)とイギリス・ドイツ海軍協定(1935年締結)

廃棄を宣言。

 

さらに5月22日にイタリアとの軍事同盟条約である

鋼鉄条約を結びました。

 

ここからイギリス・ドイツ間の駆け引きと

アメリカやソ連を含む各国の動きが

さらに複雑に入り乱れ、大戦争へと拡大していきます。

 

この時のチェンバレンの政策については

様々な意見がありますが、

 

チェンバレンヒトラームッソリーニがどのような政策を

取っていくのか、

 

ここまであまり介入してこなかったアメリカやソ連がどのように

動いてくるのか、

 

次の章で書いていきたいと思います。

 

長くなりましたが

ここまで読んでいただきありがとうございました!

引き続きよろしくお願いします!

 

ドリップコーヒー淹れるのが面倒っていう方へ

こんにちは。

 

前回までドリップコーヒーを紹介してきましたが、

やっぱり"毎回コーヒー淹れるのもちょっとな..."っていう方もいると思います。

いやむしろ面倒じゃないっていう人いますか?笑

 

ミルにかけるのも含め、香りは楽しむ優雅な時間なのはわかります。

私もその点は好きです。

...が、余裕のない朝とかにもコーヒー飲みたいじゃないですか!

 

それに今はコンビニでも淹れたての美味しいコーヒーを安く飲める時代です。

(いつかそれについても触れたいですね)

 

レギュラーサイズならなんと100円以下で飲めます。いい時代ですよね...。

そんなこんなで自宅でコーヒーを飲む良さが薄まりつつあります。

 

とはいいつつ、今回はなんと1杯80円台

自宅で上質なコーヒーを楽しめる方法をお教えします。

 

ズバリ、Nespressoです。

 

 
マシンにカプセルを入れてボタンを押せば淹れたてのおいしいコーヒーが味わえるネスプレッソ。
どちらかというと高級な感じのイメージを持っている方も多いかもしれませんが、
実は一番安いコーヒーカプセルは1個81円です。(次に安いのは86円です。)
 
ものによっては91円だったりそれ以上のものもありますが、
86円以下のカプセルは20種類くらいあります。
地域のコーヒーを比べてみたり、時にはフレーバーコーヒーを楽しんだり、
いろいろな楽しみ方ができるでしょう。
 
当然ながら
コーヒーの味は間違いありません
ドリップコーヒーとは違い、油分も含めた豆の成分をしっかり抽出させるので
茶店で飲むような泡立ったコクのあるコーヒーが好きな方には特におすすめです。
 
どの豆を選んでも素晴らしいコーヒーを楽しめるので、
自分好みのコーヒーを探しながらいろいろな味を試していくのもありですし、
好きな場所のコーヒーをお家でまったり楽しむのもありでしょう。
 
エスプレッソで一日をキックスタートさせるのもよし、
ルンゴ(エスプレッソよりは薄め)でゆったりコーヒーの香りを楽しむのもよし、
氷を入れてアイスで楽しむのもよし、
どんな飲み方でも最高の一杯となります。
 
そしてラテ好きのかたには、
ちょっと値段は上がりますが
ラティシマ・ワンというボタン一つでカフェラテを作ってくれるシリーズもあります。
 
私はギフトでもらったこちらを愛用しています。
 

 
夏はアイスコーヒー、冬はラテ派です笑
 
ちなみに
カプセルは10個単位オンライン購入できるのですが、
一度に4000円以上買うと送料無料になります。
 
10個x5本で大体4000円なので、
半月~1ヵ月分を買う感じになるでしょうか。
私はいつも5種類のコーヒーを買っています。
 
数か月に一回くらいキャンペーンで
無条件で送料無料になったりもします。
 
さらに、
使ったコーヒーカプセルは専用の袋に入れていき、
袋が一杯になったら店頭リサイクルボックスで回収してもらうのですが、
 
リサイクルボックスに入れるたびに毎回もらえるスタンプ3つためると
その場でコーヒーカプセルが10個入ったバラエティセットをもらえます。
 
大体7~80カプセルくらいで一杯になるので、
毎日2杯飲めば2か月半でスタンプ一個という感じです。
 
私の家では2人で1日4カプセル程消費するので1か月もあればスタンプが1個もらえます笑
 
まあおまけ程度に考えてもらえればいいですが、
出たゴミが特典になるのはいいですよね!
 
いろんな味を楽しめること。
ボタン一つで簡単なこと。
とにかくおいしいこと。
 
最初の投資(といっても最安価モデルで7000円台)だけすれば、
最高の体験ができます!!
 
毎日手間なく、上質なコーヒーを楽しむ生活を始めませんか?
 
ちょっとでもいいなと思った方のために、もう一度リンクを貼っておきますので是非コメントで感想お聞かせください!
お待ちしてます!
 

 

<世界史>第一次世界大戦

こんにちは。

 

最近近代史に興味をもって

色々調べたりして勉強しているのですが、

 

どうせなら学んだことを

ここにアウトプットして残してみよう

と思いまして、

それを実行させていただきます。

 

最初は第一次世界大戦編です。

 

とは言えですね、

情報量もそもそも多くて

どこから話を始めたらいいのかが

非常に難しいんですよ。

 

自分の文章力もアレなのですが、

どこから繋がっているか

その原点を辿ろうと思えば

いくらでも遡れてしまうのです。

 

なのでとりあえずシンプル

第一次世界大戦がいつどのように起こったのか

というところから話していこうかと思います。

 

1914年7月28日から

1918年11月11日の間に起きた

人類最初世界的大戦争なのですが、 

 

実はこの歴史的大戦の

トリガーとなったは一人の青年なんです。

 

言ってしまえば

もともと各大国同士で

ピリピリしあっていたのですが、

ある出来事をきっかけにその戦いの火蓋が切られました。

 

その出来事とは1914年6月18日に起きた

サライェヴォ(サラエボ)事件

と呼ばれる事件です。

 

サライェヴォ事件

オーストリア・ハンガリー帝国皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公

その妻ソフィー大公妃が、

 

併合国であるボスニアの州都

サライェヴォで暗殺されるという事件です。

 

夫妻は軍隊の閲兵を行うため、

オープンカーで会場に到着しました。

 

運転手が車を止めた時、

たまたま後ろにいたセルビア

ガブリロ・プリンツィプが大公を射殺。

 

彼は続けて護衛を狙いますが、

逸れた弾が大公妃に直撃し、

大公妃も即死だったそうです。

 

たまたまいたセルビア人?どういうこと?

となるのは当然のことです。

厳密に言うと全くの偶然ではありません

 

実はこの青年プリンツィプは、

母国セルビアが奴隷のように

扱われていることに憤慨し、

秘密結社、通称黒手組に参加していました。

 

彼の目的は大公の暗殺でしたが、

首領のアピスという人物の目的は

セルビア政府への嫌がらせだったらしいです。

 

そして事件当日、

他の仲間も大公の射殺を試みますが

いずれも失敗。

 

そして偶然大公夫妻の乗る車が

プリンツィプの目の前で止まり、

彼が実行犯となりました。

 

彼は未成年だったため死刑は免れ

懲役20年を言い渡されますが、

持病を患っていたため懲役期間中に病死しました。

 

セルビア主義

ちなみにボスニア・ヘルツェゴビナ

1908年、ーストリア・ハンガリー帝国

併合されています。

 

その際に当然原住民である

スラブ系民族は反対し、

それをきっかけにスラブ系民族による

民族国家を設立する思想が強くなっていきました。

 

この思想はセルビア主義と呼ばれており、

オーストリア・ハンガリー帝国

パン・ゲルマン主義とは

もちろん対立の関係でした。

 

バルカン同盟とバルカン戦争

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ

併合されたころ、

近隣諸国でも動きがありました。

 

1912年、大スラブ主義を掲げる

バルカン半島の諸国が

オスマン帝国に対する共同防御策として

バルカン同盟を結びます。

 

同盟参加国は

セルビアモンテネグロブルガリアギリシア

の4か国です。

オーストリア・ハンガリー帝国オスマン帝国

バルカン半島への進出を阻止する目的で

ロシアもバルカン同盟を支援しました。

 

そして同じく1912年、

アルバニアの反乱を機にバルカン同盟諸国が

オスマン帝国に宣戦布告し、

第一次バルカン戦争を起こしました。

 

この戦争に負けたオスマン帝国

バルカン半島の領土を失い、

アルバニアの独立も承認されました。

 

バルカン同盟がこの戦争に勝利し、

翌年1913年5月に結ばれたロンドン条約では

オスマン帝国領のマケドニア

バルカン同盟諸国で分ける形となります。

 

しかしこの分配に納得のいかなかった

ブルガリアが同年6月に、

同盟国であるセルビアギリシアに侵攻。

第二次バルカン戦争が勃発します。

 

ブルガリア単独の強大化を恐れた周辺国は

セルビアギリシアを支援したため、

ブルガリアは完全孤立化し

2カ月で敗北を喫します。

 

そして同年8月に

ブカレスト講和条約が締結され、

ブルガリアは縮小を余儀なくされました。

 

バルカン同盟諸国が掲げていた

大スラブ主義ですが、

オーストリア・ハンガリー帝国

ボスニア・ヘルツェゴビナを併合した際に

被害にあったスラブ系民族が発起し、

この思想がさらに加速します。

 

そしてボスニアヘルツェゴビナに住んでいた

セルビア人を中心に

スラブ人の統一国家を作ろうという思想が

セルビア主義なのです。

 

このバルカン半島での一連の動きは

バルカン問題と呼ばれ、

常に周辺国同士ピリピリした

状態ではありました。

 

セルビアへの宣戦布告

話をサライェヴォ事件直後に戻しましょう。

大公夫妻を殺害され当然怒った

オーストリア・ハンガリー帝国

皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、

 

サライェボ事件はセルビア主義を掲げる民族と

その背後にいるセルビア政府による陰謀だ!

として、

ドイツ帝国(ヴィルヘルム2世)の承認を受けた上で

最後通牒セルビアに出します。

最後通牒...これが最後の警告だ。というお達し。

 

しかしセルビアにこれを拒否され、

サライェヴォ事件の翌月1914年7月28日、

宣戦布告をします。

 

これが第一次世界大戦の始まり

とされています。

 

え?だったらセルビア

オーストリア・ハンガリー帝国の間の戦争じゃ?

と思うかもしれません。

 

しかし先ほどのバルカン問題があるように

各国の思惑が交錯し、

そこから徐々に、いや一気に

大戦争へと拡大していくのです。

 

西部戦線

さて、2か国間の戦争でしたが

その他で最初に動きを見せるのはそう、

ロシア(ニコライ2世)です。

 

バルカン同盟の時と同じように、

オーストリア・ハンガリー帝国

拡大を警戒していたロシア

セルビアを支援する為軍隊を送ります。

 

それに気づいたドイツ

ロシアに最後通牒を通達しますが、

ロシアはドイツに宣戦布告します。

 

その開戦は必然的に

ドイツと敵対していた

フランスを巻き込みました。

 

ドイツとしてはフランスには

中立でいて欲しかったのですが、

フランスはその要求を拒否し、

ドイツに宣戦布告します。

 

そしてドイツから

フランスへの侵攻を開始します。

 

ただ途中で中立国であるベルギー

渡る必要があったため、

8月2日に通過の許可を要求しますが

ベルギーがこれを拒否

 

拒否されたドイツは

4日にはベルギー国内へ侵攻します。

 

ドイツが中立国に侵攻したことに

怒ったイギリスもベルギーを支援しました。

 

しかしドイツは6日にリエージュを包囲し

立て続けに砲撃と空爆を行います。

ベルギー軍は16日まで持ちこたえたが敗北し、

ドイツ軍の進軍を許す形となりました。

 

同年9月、ドイツ軍は遂に

フランスに侵入しますが、

すぐにイギリスの偵察機がそれを発見します。

 

発見の知らせを受けた

フランス軍がドイツ軍を急襲し、

ドイツ軍の侵攻を阻止しました。

 

この戦いはパリの東側に位置するマルヌ川付近で行われたことからマルヌの戦いと呼ばれています。

 

そしてマルヌの戦いの最中、

 

ロシア軍が東方から

予想以上の早さで迫ってきている

 

という知らせを受けた

ドイツの総司令官モルトケ

兵力を移動させるために

ドイツ軍を後退させました。

 

こうして6週間でパリを陥落させる

というドイツ軍の当初の作戦は崩れ、

長期戦へともつれ込んだのです。

 

ドイツとフランスの国境には塹壕が彫られ、

いわゆる塹壕に突入します。

更に新戦術として毒ガスが開発され、

残酷な戦いへと変貌していきました。

 

東部戦線

ロシアは8月17日の時点で

ドイツ領東プロイセンにまで

進撃していましたが、

 

徐々に補給不足と通信の不備が露呈し、

タンネンベルクの戦いでドイツ軍に敗れます。

 

ドイツ軍のヒンデンブルク隊長

ルーデンドルフ参謀長

ロシア軍の無線を傍受してその進路を察知し、

列車を使って大軍を移動させて

勝利を導いたと言われています。

 

このロシア軍の敗北は

ロシア革命の警鐘になった

とも言われています。

 

ガリポリの戦い

東部戦線と呼ばれる戦いには

含まれないようですが、

オスマン帝国も1914年10月に同盟国に付き、

戦いを繰り広げています。

 

オスマン帝国に隣接する黒海エーゲ海

ロシアと連合国各国の連絡路として

重要な役割を担っていた為、

 

オスマン帝国同盟国側につくことは

連合国にとっては非常に都合が悪かったのです。

 

そこで連合国であるイギリス

海軍大臣ウィンストン•チャーチル

オスマン帝国ガリポリ要塞

占領する作戦を立てました。

 

その作戦を基に1915年4月25日、

オーストラリアニュージーランドの連合軍(ANZAC)は連合国に参加します。

 

しかしオスマン帝国は善戦し、

その間の1915年10月14日には

ブルガリア同盟国側に付きます。

 

さらに同年12月には

セルビアオーストリアに敗れます。

 

そうしてオスマン帝国が同盟国の諸国と

連絡が取れるようになったことで

連合国のガリポリ作戦は失敗に終わり、

翌1916年1月には撤退することとなりました。

 

その代わりに連合国はギリシアを説得し、

連合国に付かせることに成功しています。

 

ちなみに連合国は英仏露の同盟から協商国とも呼ばれています。

 

ヴェルダンの戦い

第一次世界大戦の中でも

最大の戦争と呼ばれる戦いが

1916年2月から6月にかけて

フランスとベルギーの国境付近で行われました。

 

ドイツ軍はフランスに総攻撃を図りますが、

フランスはそれを総力を掛けて

これを阻止することに成功します。

 

結果的に死者数合計が

およそ60万人という

凄まじい戦いとなりました。

 

ソンムの戦い

ヴェルダンの戦いの直後、

フランスのソンムで、

イギリスとフランスの連合軍が

ドイツ軍を総攻撃しました。

 

イギリスのヘイグ将軍

まだ実験段階だった戦車

初めて実戦に導入しましたが、

この戦闘はかなりの消耗戦となります。

 

合計で100万人以上の死傷者を出すものの

結局勝敗が付かないまま11月に終わりました。

 

この戦いで多くの人間が

戦争への意欲を失ったとも言われています。

 

当たり前ですよね。

これだけの人間が戦死し、

多くの人が友人や家族を亡くしたことでしょう。

 

むしろこの悲惨な戦いの後にも

戦争が続いたことの方が驚きです。

 

ヴェルダンの戦い

ソンムの戦いを合わせると

ドイツ軍だけでも70万人以上

命を落としています。

 

海上の戦い

確かにヨーロッパにおける

悲惨なこの戦いの規模は

とんでもないものだったと思います。

 

残酷な兵器が開発され、

考えられない規模で人が亡くなりました。

 

ただ、世界大戦は

更に広範囲に広がります。

 

ヨーロッパだけにとどまらず、

この戦争は更に広い範囲に飛び火していくのです。

そしてその火はから広がりました。

 

元々艦隊を有していたイギリスとドイツですが、

開戦当初制海権を握っていたイギリスが、

ドイツのバルト海進出を

実質不可能なものとしていました。

 

唯一太平洋に出て活動していたドイツ東洋艦隊

1914年12月に大西洋でイギリス軍に敗れ

撃沈しています。

 

しかしその後

陸上の戦いが膠着状態になると、

食料を輸入に依存しているイギリスを叩くため、1915年5月にドイツ軍

再度海上決戦に挑みました。

 

最初の海上の戦いであるユトランド沖海戦では

イギリス軍による海上封鎖網を

打開するまでには至りませんでしたが、

 

ドイツ軍は潜水艦による

無差別魚雷攻撃(無制限潜水艦作戦)を行い、

無防備な商船を次々に潰すことで

イギリスへの輸送を止めました。

 

この無差別攻撃は第三国、

特にアメリから批判を受け

ドイツ軍は一度は止めたものの、

 

1917年2月に無制限潜水艦作戦の再開を宣言し、

アメリカの連合国への参戦を

誘発することになります。

 

イギリスではドイツから商船を守るため、

ロイド・ジョージ

輸送船団方式(コンボイ・システム)を考案し、

被害を激減させました。

 

また、地中海ではドイツ海軍と

フランス・イギリス海軍は交戦しており、

 

黒海でもロシア海軍オスマン海軍が

交戦していました。

 

1917年2月には

日英同盟を結んでいる日本海にも要請が入り、

日本は地中海に合計15隻の軍艦を派遣しました。

 

オスマン帝国への敵対

1914年、イギリスはオスマン帝国に対し

エジプト保護国化を通告し、

スエズ運河を確保します。

 

そしてカイロを拠点に

パレスチナへの進出を図りました。

 

エジプトはオスマン帝国宗主国としながらも

イギリス領だったため、

敵となったオスマン帝国への侵攻拠点として

カイロをこれからは遠慮なく使わせてもらう

という意味での通告でした。

 

1916年5月、

イギリスはフランスと

サイクス•ピコ協定を結び、

戦後のオスマン帝国領分割について協定しますが、

 

1917 年11月にバルフォア宣言を出し、

ユダヤ人によるパレスチナ建国を承認します。

 

この2つは

イギリスへの見返りを生む為の物でしたが、

サイクス•ピコ協定では

パレスチナは戦後フランス領になる

という内容のため、矛盾が生じてしまいました。

 

更にいうと、

イギリスはアラブ人に対しても

エルサレムオスマン帝国から取り返し

アラブ人による国を創ることを

約束していました。

 

パレスチナ問題

このイギリスの矛盾外交で状況が激化した

と言っても過言ではないでしょう。

 

いずれパレスチナ問題についても

触れたいと思います。

 

日英同盟に基づく日本の参戦

先程も少し触れましたが、

日本第一次世界大戦参戦しています。

 

日英同盟に基づきイギリスは

日本に東シナ海ドイツ艦隊への攻撃要請をし、

日本は直ちに出兵を開始しました。

 

しかし日本が中国や太平洋に

進出するきっかけになることを警戒した

アメリがイギリスに対し

この要請を撤回するよう求めたのです。

 

イギリスは撤回要請を承諾し、

日本に対する出兵要請の取り消しを指示しますが、日本側が攻撃を強行し、

ドイツ軍に最後通牒を出します。

 

更にこれを無視されたとして、

ドイツ軍の青島要塞を攻撃、

陥落させてしまいます。

 

その後太平洋にあるドイツ領を次々と占領し、

中国に対しても二十一ヵ条要求を突き付けます。

 

簡単に言うと、

元々ドイツが握っていた中国の支配権を

日本が継承することを認めよ。

という内容です。

 

但しこの二十一ヵ条要求が元凶となり

後でややこしい事になります。

 

二十一ヵ条要求

二十一箇条要求は

中国に向けたものですが、

実はイギリス、アメリカ、フランス、ロシア

にも事前に見せていました。

 

二十一ヵ条要求と言っても

大きく5項に分けられており、

1項から4項は戦争の対価として妥当だと

列強諸国は判断していました。

 

しかし上記の列強諸国には

5項目の存在を意図的に隠されていたのです。

 

5項目には

日本が中国を保護国化する意図

が含まれており、

 

列強の既得権や、

アメリカの中国に対する考え方である

門戸開放、機会均等、国土安全

という原則に反するものであるため、

日本が隠していたのです。

 

ただ中国政府に対してだけは

5項目も含めて掲示し、

権利の承認を迫りました。

 

そしてそのことを知った中国政府は

第5項を強調して宣伝し、

各国が日本に問い詰める事態となったのです。

 

中国政府に対する交渉は難航しました。

その結果として結局第5項を取り消し、

中国政府に2日間を期限とした

最後通牒を出すことになります。

 

中国はやむを得ず1項から4項を承諾し、

日本は山東省の権益などを獲得しました。

 

ロシア革命

こんな世界中で大戦争が行われる最中、

ロシアでは国内で革命が起きました。

 

1917年3月に起きた二月革命(ロシア暦)で

ツァーリ政権が倒され、

臨時政府ソヴィエトの2大権力となります。

 

臨時政府は戦争に意欲を示しましたが

ソヴィエト側はこれに反対していました。

 

このときスイスに亡命していた

ソヴィエトの指導者レーニン

ロシアに帰国させるべく、

ドイツ国内を通行できるように手配し、

帰国したレーニンは臨時政府打倒

に向けて動き出します。

 

同年11月にはレーニンに働きかけられた

ボリシェビキ十月革命(ロシア暦)を起こし、

遂に臨時政府を倒すことに成功します。

 

ソヴィエト単独政権となったロシアは

平和についての布告を発表し、

できるだけ穏便に済ませられるよう

列強諸国働きかけましたが、

列強諸国はこれを無視していました。

 

ただドイツだけはこれを好機と見て1918年3月、

両国間でブレスト•リトフスク条約を結び

単独講和を成立させます。

 

ロシアはポーランドの独立を含む

領土の縮小をも承諾していました。

 

中立を守っていたアメリカの参戦

そしてもう一つ大きな契機となったのは、

開戦当初から中立を貫いていた

アメリの参戦です。

 

中立とは言っても、

列強諸国に武器を売り大儲けをしていました。

第一次世界大戦唯一得をしたのは

アメリカだとも言われています。

 

しかしドイツアメリカ商船

攻撃されたことを受けて

国内で参戦の声が高まり、

 

前述した無制限潜水艦作戦の再開を機に

1917年4月、ウィルソン大統領が

参戦の決断をします。

 

また、同年11月にレーニンが発表した

平和についての布告に対抗し、1918年1月には

戦争目的の明確化と戦後処理の原則を示す

十四ヵ条を発表しました。

 

シベリア出兵

前述したようにロシア

戦争への加担を実質止めたわけですが、

当然それをよく思っていない国もありました。

同じ連合国側にいたイギリスやフランスです。

 

そこで両国はロシア革命への干渉を企て、

1918年3月にはアメリカ軍と共に

ムルマンスクに上陸。

 

反革命政権を支援する為に

対ソ干渉戦争を起こします。

 

日本軍も同年4月に

単独でシベリアに上陸しています。

 

そしてロシア捕虜となっている

チェコ・スロバキア軍の支援という名目で、

4カ国は同年8月にシベリア出兵へと

踏み込みました。

 

世界大戦、終結

ロシアとの単独講和によって

東部戦線に必要なくなった分の兵力を

西部戦線に送り込もうとしますが、

なかなか順調に進みませんでした。

 

そうこうしてるうちに1918年8月8日、

フランス北部でアメリが参加した連合国に

敗れてしまいます。

 

バルカン半島においても

ブルガリアが9月に停戦に応じ、

オーストリアも戦意を喪失。

 

オスマン帝国についても

イギリスパレスチナ進出

アラブの反乱により

10月に停戦に追い込まれました。

 

そんな中、

軍力の弱まったドイツで反乱が起きます。

 

1918年11月3日、

無謀な出兵命令に嫌気が差した海軍兵士が

キール軍港の水平反乱を起こし、

それをきっかけにドイツ革命が勃発しました。

 

結果としてドイツ政府

停戦の決断を迫られ、

皇帝ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命。

帝政が崩される事態となりました。

 

その後

臨時政府の権力を握ったエーベルト

1918年11月11日、フランスにて

連合国側停戦協定を結び、

第一次世界大戦を終わらせたのです。

 

1919年にはパリ講和会議が開かれ、

外交の原則や軍備の制限などを盛り込んだ

ヴェルサイユ条約が成立しました。

 

なお、このヴェルサイユ条約には

日本の二十一ヵ条要求にあった

山東省権益の継続

認める内容が含まれていたため、

中国ヴェルサイユ条約に調印しませんでした。

 

実際には政府は調印を指示していましたが

国内での五•四運動を知った

中国代表の顧維均

独自の判断で調印を止めたそうです。

 

アメリにおいても

共和党にて調印が否決されたため

ヴェルサイユ条約には調印しておらず、

代わりにドイツとは単独で

講和条約を結んでいます。

 

実はヴェルサイユ条約自体が

ドイツと連合国の間で結ばれた条約であり、

同盟国の他の国々に対しては

それぞれ別個に条約が結ばれました。

 

偶然なのかヴェルサイユ条約

サライェヴォ事件と同じ6月28日に

締結されています。

 

ちなみに終戦に向かい始めた1918年春頃に

スペイン風邪と呼ばれる

インフルエンザ大流行し始め、

 

ヨーロッパを中心に

世界中で15万人の死者を出しました。

このことも終戦への圧力になった

と言われています。

 

実はスペインが発生源と言うわけではなく、

中立国だったスペインが

放送規制をしていなかった為に

スペインで流行ったのだと

勘違いされただけのようです。

 

こうして終戦を迎えた第一次世界大戦ですが、

ご存知の通り悲劇は繰り返されます。

 

多大な数の人が命を落とし

戦争の恐ろしさを知ったはずなのに

何故人間は惨劇を繰り返したのか。

次回は第二次世界大戦に触れたいと思います。

 

ではでは。

 

<レシピ>レモンを絞ったペペロンチーノ

こんにちは。

 

今日はほんの少しアレンジを加えた

ペペロンチーノを紹介しようと思います。

 

それはレモンを絞ったペペロンチーノです。

夏にピッタリさっぱりとしたパスタはいかがでしょうか!

 
 
 
 
 
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その前にご存じの方も多いと思いますが

日本でお馴染みのペペロンチーノ

これは本来料理名ではありません。

 

本来の料理名は

アーリオ•オーリオ•エ•ペペロンチーノ

と言うそうです。

 

イタリア語

にんにく、油、そして唐辛子

みたいな意味です。

 

ただの材料の列挙だったんですね(汗)

ペペロンチーノは唐辛子を意味します。

 

逆に言えばこの3つの材料さえあれば

それはもういわゆる

ペペロンチーノなのです。

 

そして、今回ペペロンチーノに

ちょい足ししていくのは

主役のレモンベーコン

そしてイタリアンパセリです。

 

では早速作り方を見ていきましょう。

といっても非常にシンプルです。

 

[材料 2人分]

お好きなパスタ...200g

ニンニク...6かけ

唐辛子...4本

(辛いのがそんなに得意でなければ種は除いてください)

お好きなオリーブオイル...50ml

イタリアンパセリ...好きなだけ

ベーコン...150g

レモン...1/4個

塩...茹で水の1%(g)+少々

 

※厳密に言えば茹で水に入れる塩以外、すべての量はお好みです。うちは全部上記より多いです笑

※上のインスタの時はアスパラガスも入れました😋

 

[レシピ]

1. にんにくを薄くスライスする

2. ベーコンは細めに刻む

3. イタリアンパセリは細かく刻む

4. スライスしたにんにくとオリーブオイルをフライパンに入れ、弱火で火を点ける

5. フライパンを斜めにし、にんにくがオリーブオイルに浸る感じにする

6. グツグツしてきたら唐辛子を入れる

7. 湯で水と塩を入れた鍋にも火を点け、お湯を沸かす

8. にんにくが焦げないように気をつけながら、グツグツ言わなくなるまで弱火で炒め続ける。

9. 茹で水が沸騰したら、パスタの茹で時間に合わせていい感じのタイミングで茹で始める。(パッケージ記載より2分短く茹でる。時間の記載が細かい場合はアルデンテの湯で時間を基準にする)

10. パスタがゆであがったらパスタを茹で水からそのままフライパンに移し、茹で汁自体もお玉1.5杯分程フライパンに入れる。

11. すぐにフライパンを揺すりながら激しく混ぜあわせる。オリーブオイルと茹で汁を混ぜることを意識する。

12. 茹で汁とオリーブオイルが混ざって白く濁ったらイタリアンパセリを加えて軽く混ぜ合わせる。お好みで更に塩を振って味を調える。

13. レモンをこのタイミングか、盛り付けたあとに絞る。一皿当たり1/8個くらいがおすすめ。

 

いかがでしたでしょうか。

夏にピッタリのさっぱりとしたペペロンチーノ。

ぜひお試しください。

 

質問などのコメントもいただけたら嬉しいです!

 

<書籍紹介>嫌われる勇気

こんにちは。

 

今回は初めての書籍紹介をしてみたいと思います。

なんとか、皆さんに読んでみたいと思わせることができるように

本の魅力を伝えていきたいです。

 

そして本日紹介する書籍はこちら!

 

 

皆さんも一度は聞いたことあると思います

嫌われる勇気を紹介します。

  

さて、まず確認ですが、

聞いたことがある方も多いと思われるこの本、

どんな印象をお持ちでしょうか?

 

どうせ

"嫌われる勇気を出して自分の意志を持て!"とか 

"イエスマンになるな!"とか

そう言う話でしょう?

と言ったような印象を持たれている方は多いのではないでしょうか?

 

だとしたら読めばわかるのですが、

そんな単純な話ではないです!

 

いや、と言うかそんな当たり前のことをドヤ顔で語るその辺の自己啓発本とは違うのです。

 

当たり前のこととは言いましたが

それができないから人は苦しんでいます。

 

そして苦しんでいるから

そう言う自己啓発本に救いを求めるんですよね?

 

でもできない、何故なのか。

なるほど!と言って意識してみても

何も変えられずに結局悩み続ける

そういうものです。

 

そもそもなぜ悩んでいるんでしょう?

何を解決すれば幸せになれるんでしょう?

解決するには、どうすれば良いんでしょう?

考えれば考えるほど分からない...。

だから悩んでるんですよね。

 

そういう人には、是非読んでほしいのです。

 

この本は、フロイトユングと並んで

心理学の世界三大巨頭に位置付けられるアルフレッド・アドラーの教えを、

心理学カウンセラーであり哲学者でもある岸見一郎という方が

対話方式で書いたものです。

 

この対話では哲学者(哲人と言われています)と若者が

人は変われるか。誰にでも幸せになれるのか。

ということについて議論を展開していきます。

 

人類最大の課題とも言えるこの課題を、

哲人はどのように語るのでしょうか。

 

哲人は最初に

"人生は変えられる、人は誰でも幸せになれる。"

という結論をその若者に叩きつけます。

 

人は変わらないという

持論を持ったその若者は

当然納得いかず、反発します。

 

人は変わらない、

ここに立っている自分自身が

変わりたくても変われずに苦しんでいるのだ。と。

 

若者は厳しい家庭に育てられ、

3歳上の兄といつも比較され、悪いように言われて育ちました。

"兄はこんなにできるのに、お前は何故こんなこともできないのだ"と。

 

そして愛を受けずに育った自分には

幸せになることは不可能だと、若者は悩み続けていました。

だからこそ、そんな持論を持った哲人を

論破してやろうと、万が一できなかったらその時は

自分にも幸せになれる可能性があるのだろう。

ただ万が一にもそんなことにはなり得ないと。若者は思っていました。

 

続きを読む

<css>正方形の要素を均等に並べたい時

こんにちは、

 

前回は画面サイズ(厳密には親要素のサイズ)に応じて

大きさが変わる正方形の要素の作り方

を紹介しました。

 

shefuyuta.hatenablog.com

 

 

そして今回はその要素たちを

画面内に均等に並べてみようという

試みです。

 

画面内に均等に並べると言えば、

皆さんご存知Flex boxですね!

 

display: というプロパティがありますが、

これらは元来、子要素をに並べるかに並べるかくらいの

違いしかありませんでした。

(厳密にいうと違うんでしょうけどプロフェッショナルの方々怒らないでください笑)

 

しかし、display: flex; という値を用いることで

親要素に合わせて自動的に均等に並べることができるようになったのです!

 

今回の目標物はざっくり以下の感じにします。

もちろん皆さんが試されるときは若干の変更を加えれば臨機応変に変更できます。

 

[目標物]

-正方形を3x3でほぼ画面いっぱいに並べる。

-2列目の正方形は画面の中央に位置する。

-1行目の正方形を青、2行目を緑、3行目を黄色とする。

-それぞれの正方形同士は少しだけ離れている。

-それぞれの正方形にはThis is blue.のように色の説明がある。

-色の説明はそれぞれの正方形の中心に位置する。

 

実際に使ってみるとこんな感じになります↓↓↓

Flex boxes  by shefuyuta (@shefuyuta) on CodePen.

 

このように正方形均等画面中央に並んでくれます。

目標物のイメージ通りになっていますでしょうか?

 

さて、ここから詳しく解説していきます。

 

 

まず、html親要素を作ります。

分かりやすいようにclass名はparentとします。

この中に正方形にする要素が9つ欲しいので、

<div>9つ作ります。

 

そして行ごとに色を変えるので、

最初の3つのclass名blue、次の3つをgreen、最後の3つをyellowとします。

さらにそれぞれの<div>の中に<a>要素を追加し、それぞれ"This is [色]."とします。

 

htmlはこれで整いました。

ではcssを見ていきましょう。

 

まず、親要素である.parentwidth: 100%;とします。

それぞれの正方形の幅を%で指定する為、

その親要素のwidth必ず%で指定しないといけないのです。

 

厳密にはその親というか元祖であるhtml要素も

width: 100%;と指定する必要があります。

ちなみにhtml要素は基本的に100%を推奨しますが、.parent要素は必ずしも100%でなくても構いません。

気になる人はどうなるか試してみると理解が深まります。

私は初心者ながらこういう実験的なものが好きなのでなぜそうしなければならないのか理解できないと気持ちが悪いのでつい試してしまいます。

(良い事のようにも聞こえますが、細かいことをいちいち気にしているとそれだけ学習が遅くなります...。気を付けます...。)

 

次に、子要素である正方形予備軍たちを均等に並べたいので、

ここでdisplay: flex;としましょう。

※displayは子要素の並びを制御するものです。子要素に直接display: flex;と入れても効かないので気をつけましょう。

さらにflex box詳細を設定していきます。

flex-direction: row; (並べる向き: 横;)

flex-wrap: wrap; (端まで行ったときに折り返して2行目に行くか: 行く;) 

※ここまでデフォルト値なので実は入力不要です。

justify-content: center; (子要素をどのように並べるか(横軸): 中央揃え;)

align-items:  center; (子要素をどのように並べるか(縦軸): 中央揃え;)

 

これで親要素は完了です。

次に子要素(正方形予備軍)ですが、

子要素の正方形予備軍たちは3つずつclass名が分かれています。

 

ただ大きさなどについては全部一度に指定したいので、

.parent > div(.parent要素の子要素であるdiv、孫要素以下は対象外)で指定していきます。

今回の場合は.parent div(parent要素内のdiv全て)でも問題ないです。

 

その前に前回お話した通り、

.parent > div::beforeから設定します。

.parent > div::before {

 padding-top(またはbottom): 100%;

 content: "";

 display: block; 

}

これでいいですね。

 

ではdiv要素自体をいじっていきましょう。

一番大事なのはここのwidthプロパティですね。

このプロパティが何%かによって、1行あたりに何個の正方形が並ぶかが決まります。

今回は1行あたり3つずつ並べたいので、widthの値は33.333333.....%以下にします。

つまり、100%の中に3つ入るようにしたいのです。

33.333....4%を以上になってしまうと3つ目が入らないので、

flex-wrapによって3つ目が2行目に追いやられてしまいます。

反対に25%以下にしてしまうと4つ目が入ってしまうので気をつけましょう。

 

今回は適当に30%としています。

合計90%しかないじゃんと思うかもしれませんが、正方形同士の間にスペースが必要なので、スペースをどのくらい確保するのかも計算に入れなければいけません。

今回は正方形のmarginを全辺1%にしているので、1%×正方形3つ×2辺で6%になります。

あれ?それでも合計96%では?と思ったあなた。その通りなんです。

 

ただし、

親要素にdisplay: flex;justify-content: center;

と指定しているので、

残りの4%は両端に均等に割り振られます

align-itemsもcenterなので上下のスペースについても同じです。

 

親要素に<div>をもう1個挟んでmargin: 2%;とし、

子要素の正方形予備軍は::firstとかを使ったりして細かーく設定しても同じ結果にできますが、

同じ結果になるならdisplay: flex;で自動的にスペースを割り振った方が

圧倒的に楽ですし、見やすいので後からの変更もしやすいです。圧倒的に。

 

 

さて、flexbox圧倒的便利さを痛感しながら

正方形を並べられたところで

次に行きましょう。

 

正方形内のThis is[色]の文字を各正方形の真ん中に入れたいので、

その親要素である正方形自体もdisplay: flex;にする必要があります。

これも.parent > div内で大丈夫ですね!

 

display: flex;

flex-directionはデフォルト値でいいので省略

justify-content: center;

align-items: center;

 

これでいいでしょう。

 

次に正方形に色を付けていきます。

色ごとにclass分けをしたので

素直に各クラスのbackground-colorを指定しましょう。

 

次は各正方形の中の<a>要素について

ケアしていきます。

 

特に何もいらないですが、

目立つようにfont-weight: bold;を入れてます。

 

またfont-sizeについては

正方形のように柔軟に変わってほしいので

5vhとしています。

 

ちなみにvhviewport heightの略で画面の高さの5%となります。

 

さて、ちょっと長くなりましたが

分かりやすく説明できていたでしょうか。

 

分かりにくかったり質問があったりしたら

お気軽に、というか是非コメントください!

お待ちしています。

 

 

<css>画像を正方形にして入れたい時

こんにちは。

 

日々cssの勉強をしていると、

度々奥の深さに驚かされます。

(真の奥の深さを知るほどの知識はないのですが。。。)

 

とにかく、

新たな知識を得るたびにその学びにハッとさせられるのと、

その先にもまだまだ学びがありそうという希望のようなものが

湧いてきます。

 

そして今回はこの前学んだCSSの使い方の中で

画像を正方形で入れたい時の話をしたいと思います。

(実際には1年前くらいに学んだものを数日前に実際に使ってみたときに復習しました。)

 

 まずhtmlとcssはこんな感じになります↓↓↓

 

 

ちなみに 画像を入れる際にはbackgroud-color:は不要です。html上で<img>タグを入れたり、cssでbackground-image: を入れたりして画像を入れ込んでください。

 

<img>タグを使う場合は cssでimgタグ自体のwidth:を100%にする必要があります。

 

 

 

また、画像自体の縦横比率は変えたくないと思うので、object-fit: cover;をcssの画像クラスに含めてください。

 

さらに、当然画像は正方形にトリミングされた形で表示されるので、トリミング位置を指定したいときはobject-position: ○○% 〇〇%;とします。

 

(それぞれ0%の場合左端、上端となります。初期位置は真ん中で50% 50%です。)

 

 

簡単にいうと、css::beforeを使います。

 

::boforeってなんぞや?ということになるかもしれないのですが、

リファレンスサイトでは以下のように説明されています。

 

"選択した要素の最初の子要素として擬似要素を作成します。

よく content プロパティを使用して、要素に装飾的な内容を追加するために用いられます。"

 

擬似要素?となりますが、html上のある要素の手前にもう一個要素を作っちゃおうという物です。

なんでhtml上には存在していない要素をもう一個作らないといけないのかというと、上のリファレンスサイトからの引用文2行目にある"装飾的な内容を追加するため"だけに擬似要素を作ります。

 

今回行いたい装飾は、"要素を正方形にしたい"ということです。

その装飾をするためだけに::beforeで擬似要素を作ります。 

 

でもこう思いませんか?

それだけなら要素のheight:とwidth:を同じ大きさにすれば良いじゃん。

そんな風に思っちゃった皆さん、まさにその通りなんです。

高さと幅を指定すれば正方形は作れちゃいます。

 

ただ一つだけ問題があるんです。

それは、

"親要素がどんな大きさだろうと正方形は頑固にその大きさを保ち続けてしまう"

 と言うことです。

 

もっと言えばスマホ画面だろうとPC画面だろうと映画のスクリーン(そんなわけありませんが)だろうとこの正方形の大きさは変わりません。

想像したらわかりますが、それでは不便なんです。

(映画のスクリーンは想像しなくていいです笑)

 

要素の大きさを親要素の大きさによって変えると言えば

width: 〇〇%とかheight: 〇〇%ですよね。

ただheight: と width: の両方を%で指定することができないんです。

できたとしてスクリーン自体の縦横比率が自在に変わってしまうので正方形を保つのは不可能です。

 

困りましたね。

 

と言うことで出てくるのが

じゃあheight:を設定する用に要素をもう一つ作ってしまえば良いではないか!

と言う名案です。

 

じゃあどうやって作るのか、

ここで出てくるのが::beforeです。

 

今回で言うと.square::before{}とします。

そして::beforeの要素の中で設定するのは

height:ではなく、縦方向のpaddingプロパティです。

padding-top:(またはpadding-bottom:)を100%で設定します。

::beforeで設定したpaddingが本要素の高さになってくれるのです。

 

そしてこのpaddingの100%ってなんの100%なのかと言うと、

本要素のwidthなんです!(なんで??って思いますがこのためなんですかね?)

 

本要素のwidthの100%がheightになる=幅と高さが同じ=正方形になる!

と言うことなんです!

ここでもう一度最初にお見せした::beforeが含まれるコードを見てみましょう↓↓↓

 

ここまでで、ほぇ〜っと思っていただけたら嬉しいです。

 

また、::beforeなどの擬似要素を使うときは

content: "";
display: block;

を必ず入れましょう。入れないと擬似要素が無効になります。

 

ちなみにですが、

-""内に文字を入れると擬似要素の中にその文字が含まれます。擬似要素のpaddingと要素の高さが一致しているので文字の位置は正方形の底に位置付けされます

-例えばpadding-top:の値を50%にすると、heightの値がwidthの50%になり2:1の長方形になります。

 

参考までに、この二つを実際にやってみるとこうなります↓↓↓

 

さらにさらに、 

角を丸めるプロパティborder-radius: 50%;を使って

正方形の4つ角全てを均等に丸めると

正円が作れちゃいます。↓↓↓

See the Pen A flexible circle by shefuyuta (@shefuyuta) on CodePen.

※以下リファレンスサイトの一文の通り、::beforeはimgタグなどには使えないため、

divなどで正方形を作成し、その背景画像を埋め込むか、中に画像を入れてください。

”注: ::before および ::after によって生成される擬似要素は要素の整形ボックスに含まれるため、 <img> 要素や <br> 要素のような置換要素には適用されません。”

 

いかがでしたでしょうか。

参考になった、またはこれの通りやってもできなかったと言う場合は

是非コメントいただけたら幸いです!